鬼滅の刃なんかグッときた

こじらせております。

内田樹さん著書【先生はえらい】の感想!

内田樹さん著書【先生はえらい】の感想!

 

タイトル『先生はえらい』なんとまあ、タイトルだけ見たなら色々な方々から不満が出そうである。ぼく個人も、うん?なんだろうと思ってしまいました。それでも読んでみたのは、著書が内田樹さんだったからです。

 

内田樹さんと言えば、寝ながら学べる構造主義』『ためらいの論理学』『日本辺境論』など、おもしろい本が多数あります。読むと、考え方のパータンが増える気するといいましょうか?ハッとして気持ちいいのです。そうか!そんな考え方もあるんだな~なんて、新たに視点が増えると言うか、気持ちいいのです。あっ!オレ、頭よくなったんじゃねぇ?的な気がするのです。錯覚かもしれませが・・・。

 

で、『先生はえらい』を読んでみたら、おもしろかったです。この本は小学生にも読めるように書かれているのでしょうかね。残念ながら、個人的にも読みやかったですね。

 

 

『先生はえらい』の目次!

 

先生はえらい

目次

はじめに

 

先生は既製品ではありません

 

恋愛と学び

 

教習所とF-1ドライバー

 

学びの主体性

 

なんでも根源的に考える

 

オチのない話

 

他我

 

前未来形で語られる過去

 

うなぎ

 

原因と結果

 

沈黙交易

 

交換とサッカー

 

大航海時代とアマゾン・ドットコム

 

話は最初に戻って

 

あべこべことば

 

誤解の幅

 

誤解のコミュニケーション

 

聴き手のいないことば

 

口ごもる文章

 

誤読する自由

 

あなたは何を言いたいのですか?

 

謎の先生

 

誤解者としてのアイデンティティ

 

沓を落とす人

 

先生はえらい

 

 

内田樹さんの『著者からの一言』

 

著者からひとこと

 

この本は「ちくまプリマー新書」という中高生対象の新しい新書シリーズの一冊として書かれたものです。

「いまどきの中高生に何か言いたいことがありますか?」と筑摩の編集者に尋ねられたときに、「『先生はえらい』かな・・」とぽつりと答えたのが、 この本のきっかけになりました。

 

タイトルからおわかりいただけるようにこれは師弟論です。

教育論というのは世に多くありますが、師弟論というのは、最近少ないですね。 というのも、「先生はえらくない」ということがいまの日本ではほとんど常識になっているからです。 「教育基本法を改正せよ」「教育勅語を復活せよ」などと言われるみなさんはもちろん、 「教師だって生身の人間だい」「教師は労働者である」という方向に力点を置かれるみなさんも、とりあえず「先生はそんなにえらいもんじゃないです、別に」ということについては衆議一決されています。

 

先生方のお気持ちも、あるいは先生方を罵倒される方々も、 それなりに切ない事情があって語り出されているわけですから、 お気持ちもわからないではありませんが、 そういうことだけで果たしてよろしいのであろうか、 という警世の一石を投じるのが本書の趣旨であります。

 

私の「先生はえらい」論は、「えらい先生とはこれこれこういうものである」というような認知的なものではありません(そんなことを言っても何も始まりません)。

あるいは「いいから黙って先生の言うことを聞きなさい」というような政治的なものでもありません(そんなことを言っても誰も聞いちゃくれません)。 そうではなくて、「先生」というのは定義上「えらい」ものである。 あなたが「えらい」と思う人、それが「先生」であるという必勝不敗の同語反復を断固主張するところの書物なのであります。

 

私が行ったのはいわば「えらい」の構造分析です。

「他者を『えらい』と思うのは、どういう心的状況、いかなる権力的付置のことか」 という分析を試みたのです。 これなら私も理論的に熟知しています。 というのは、 私がこの数年集中的に読んできたレヴィナス老師とラカン老師はどちらも「えらい」の専門家だからです。

 

この方たちは「えらい」というのはどういうことで、 それがどのような教育的・分析的効果をもつのかということを、 ほとんどそのこと「だけ」を考究され、 書き残されているのでした(ということに気づかれているかたはあまりいないようですが、そうなんですよ、これが)。

 

私も最近まで気づきませんでしたから、偉そうなことは言えませんが。

ともあれ、 レヴィナス、ラカン両老師のご高説をすべて「えらいの構造分析」という視点から読み直し、ついに「『先生はえらい』だって、『えらい人』のことを『先生』ていうんだもん」という必殺の同語反復に到達したというのがことの真相であります。

 

「えらい」の構造分析を通じて、師弟関係の力学的構造が解明されれば、まあ、 あとは原理的には「赤子の手をひねる」ようなものです。

ビジネスでいうところの「レバレッジ」(梃子)というやつですね。

「われにレバレッジを与えよ、 さらば宇宙を動かしてごらんにいれよう」とまではゆきませんが、 「えらい」のレバレッジ・モデルの解明を通じて、 やがて日本の教育はあらたなフェーズに入ってゆくものと確信しつつ、 新刊案内のご挨拶に代えさせて頂きます。

 

内田 樹

 

 

 

 

 

『先生はえらい』の感想!

 

能楽に【張良】という曲があります。

張良(ちょうりょう)中国の漢の時代の将軍で、その武名を謳われた張良という人が、その若い頃に黄石公という老人から「太公望秘伝の兵法の極意」を授けれたときのエピソードを、戯曲化したものです。

 

若き張良が浪人時代に、武者修行の旅先で、黄石公というよぼよぼの老人に出会います。老人は自分は太公望秘伝の兵法の奥義を究めたものであるが、君は若いのになかなか修行に励んでいてみどころがあるので、奥義を伝授してあげようと申し出ます。

 

張良、喜んでそれからは先生、先生とかいがいしくお仕えするのですが、この老人先生、そう言っただけで何も教えてくれません。いつまで経っても、何も教えてくれないので、張良の方もだんだんイライラしてきます。

 

そんなある日、張良が街を歩いていると、向こうから石公先生が馬に乗ってやってきます。そして、張良の前まで来ると、ぽろりと左足の沓(くつ)を落とします。「取って、履かせよ」と老人先生は命じます。張良、さらにイラっとするのですが、これも兵法修行のためと、甘んじて沓(くつ)を拾って履かせます。

 

その瞬間に、張良はすべてを察知して、たちまち太公望秘伝の兵法の奥義ことごとく会得して、無事に免許皆伝となりました。おしまい。

 

 

 

 

 

不思議な話ですね。何故、張良は奥義を習得できたのか?ポイントは、黄石公が沓(くつ)を、二度続けて落としているということです。一度目は偶然かもしれません。ただ、それが二度続きました、それはもう偶然ではありえません。

 

張良は考えました。この人はこうすることによって、何をしたいのか?張良は考えます。沓を落とすことと、兵法の伝授の間になにかあるのではないだろうか?張良はあれこれ、勝手に学んでしまうのです。

 

そう、勝手に学んでいくのです。そうなんですよね。すごい人って、勝手に学んでいくんですよね。あれですよ。りんごが木から落ちるのを見て、ニュートンは引力を発見した的な。実際には違うらしいですが、ニュアンス伝われば幸いです。

 

 

著者の内田樹さんは言います。先生という本質的な機能は存在である。先生を教育的に機能させるのは学ぶ側の主体性である。そのようなことを内田樹さんは、ジャック・ラカンの言葉で説明しています。

 

大丈夫です。ジャック・ラカンが出てきたからと言って難しい話ではありません。分かりやすいです。合点がいく感じです。

 

教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、すくなくとも見掛け上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。

 

無知ゆえの不適格である教授はいたためしがありません。

人は知っている者の立場に立たされている間はつねに十分に知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してありません。

 

ラカン「教える者への問い」

『フロイト理論と精神分析技法における自我(下)』岩波書店

 

 

誰だって教える立場につけますよ。先生の立場になりえるのです。そして内田樹さんは言うわけですね。先生はえらい!自分が十代の頃に読めればよかったな~とか思える本です。

 

 

 

 

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

 

 

 

 

 

最後まで読んで頂き、

ありがとうございました。